ギリホリは『現代版の出家』
こんにちは、SECURE HOMEのYushinです。
この記事は以下の方向けです。
- 海外渡航を検討している方
- なんだか満たされない状況に違和感を感じている方
今回のお話は、29歳ギリホリでニュージーランドのクライスチャーチに滞在している私Yushinが思うことを、『ギリホリは現代版出家である』と題してお話させていただきます。
はじめに
ギリホリとは、30歳の大台にギリギリ間に合うように始めるワーキングホリデーのことです。
そして、このギリホリの理由は様々だと思います。
- 今の生き方に疲れてしまった
- ようやく決心がついた(環境や時間、資金が整った)
- 海外生活を諦めきれない
いろんな理由はあるけれど、30歳にして今の環境や生活を手放して日本を離れる決心をするということは、本人の中で何か大きな理由がある場合が多いと思います。
少なくとも、私Yushinはそうでした。
だからこそ、ギリホリは『現代版の出家』といえるほど、内省と自己変革の機会を与えてくれる旅路になり得ると感じています。
そんな私が、お伝えしたい『すゝめ』は2つです。
出家とは?
そもそも出家とは、個人的な所有物を手放し、寺院や修道院などの共同体で生活をするものです。
これらは精神的な浄化と自己変革や変容の過程であり、個人の内面を豊かにすることを目的としているといわれています。
日常生活から距離を置いて自己と向き合うという『リトリート』と呼ばれるものも昨今流行っていますが、ある種の現代版の出家といえると思っています。
これまでの自分の生き方について、あらゆる気づきを与えてくれるものになると確信しています。
所有を手放す
まず、住む場所を日本から海外へ変えてみて強く感じることは、これまでの人生を通していかに物質的なモノで溢れた生活を送っていたかということです。
海外渡航やワーホリでは、基本的にスーツケース2個くらいで渡航することになります。
まずそこで、自分にとって本当に必要なものはなんだろうか?という取捨選択をするわけです。
持っていけるものには限度がありますが、渡航前はあれこれとないことがとても心配になります。
しかし、いざ生活してみると案外困らないことに気づきます。
足りないものは、現地で調達することもできますが、日本にいる時のように欲しいと思ったらなんでも購入するという暴挙はできません。
モノが増えて、すべてを持ち帰ることはできませんし、結局捨てることになる結末を考えると、そもそもモノを買わなくなっていきます。
その結果、出費もそれど多くなりません。
そして、いままでの自分を振り返って唖然とします笑
『私は、本当に自分に必要かどうかもわからない、結局はゴミとなってしまうものにどれだけのお金を費やしてきたのか』と。
モノを買うために駆り立てられるように仕事に打ち込んで、そのストレス発散のために買い物をすることでバランスを保っていたのではないかと気づくわけです。
それを考えると、そもそも海外で借り暮らしをすること自体、自分が無自覚に持っているお金の使い方や仕事に対する固定観念を浮き彫りにしてくれます。
モノがないと生きていけない、買い物で発散しないと生きていけないということ自体が幻想で、そのために駆り立てるように仕事にストレスを抱えながら生きる必要なんてまったくなかったと気づきます。
むしろ吟味に吟味を重ねて購入した必要最低限のモノで十分満たされるんだ。ということに気づけたことが大きな喜びとなりました。
コントロールができないことはいくらでもある
クライストチャーチでの暮らしを通じて見えてきたのは、日本(とりわけ東京)との環境の違いです。大きな違いが二つあります。
- 自然や動物が住まいの直ぐ近くにあること
- 様々な文化や言語的な背景を持った人種がいること
まず、クライストチャーチでの生活は、自然と動物の存在がとても身近にあります。森や小川に行けば、カモや白鳥などの鳥がたくさんいたり、野うさぎなんかも見られます。
東京のように人間中心で計画された都市とは対照的です。東京では、すべてが意味を持ち、何もかもがコントロールの下にあります。
だからこそ、何かあっても「仕方ないね」ではなく、「どうにかしろ」という精神が自然と吹き込まれていることに気付かされます。
一方、自然豊かなクライストチャーチでは、木々はただ静かにそこに立ち、動物や昆虫は自分たちのペースで生活しています。
彼らに触れようと手を伸ばしても、自然は私たちの思い通りには動きません。このことから、あらゆるものが人の意のままになるわけではなかったということを思い出させられます。
次に人の多様性です。様々な文化や言語的な背景を持った人種がいることで、コミュニケーションが上手くいかないこと、理解できないようなことは日常茶飯事です。
お互いにそれを了解しているからこそ、大ごとではない限り「仕方ないね」と寛容に振る舞うことが容易になっていきます。
どちらがよくて、どちらが悪いというわけではありませんが、その環境に慣れ切ってしまうと、あらゆることに疑問を持たなくなるということを身に染みて体験します。
そうすると、上手くいかないことや思い通りにならないことに対して逐一腹を立てたり、ストレスを感じることが圧倒的に少なくなっていきます。
そうして、できることを一生懸命やろうという気になるから、あらゆる体験において学びが多いです。
さいごに
これらのことは、私が海外生活で経験したことのほんの一部ではありますが、以前との暮らしの違いに自覚的に生きていると、自分がどれだけ凝り固まった思い込みと固定観念に従って、思考や行動をしていたことかということに気付かされます。
また、新しい環境で新しい人と、新しい体験に対して、自分がどのように感じ、考え、選択肢し、行動しているのかということが徐々に見えてきます。
環境を大きく変えることで、自分を知れる機会を得て、それを入り口に自分自身をより理解していくという内省の機会もまた与えてくれます。
もしかしたら、多くに人が抱える慢性的な日々のストレスや人生の課題感として感じているものが、本質かどうかもわからない思い込みや固定観念によって生み出されているものではないかと思います。
だからこそ、それらに行き詰まりや生きづらさを感じている人にとっては、ワーホリでの人生のモラトリアムが自己変革の機会を与えてくれるものだと思えます。
現代版出家と称してトライしてみて欲しいものです。